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桃とラベンダー

天使の粉だけ 食べて生きるの

舞台ファウストについて、個人的な雑感まとめ

日記 観劇

今日も暑いなぁ。新宿に降り立ったは人が多くてさらにもわっとした。今日はアドルフに告ぐを見に行ったのですが、サンキューチケット*1を引き換えてから開場まで隙間時間があったので、紀伊國屋書店をうろうろしていたら小西悟訳のファウストがあった!わ~~~!!!興奮してそのまま買ってしまったのだけど、仕事終わりで大荷物のなか、更にそこそこ厚い単行本を持って帰らなくてもよかったのではと今は思う。いかんせんビニール袋を腕にひっかけたときにできる締め付け痕がなかなか治らなくなってきた……。

評判のいい訳なので気になっていたけどなるほど確かに読みやすい!あとぱっと見たときに注釈がすぐそばにあるのは参照しやすくていいなぁ~!これからファウストを読んでみたい人にお勧めしたい訳のひとつ!

 

ファウスト

ファウスト

 

 

 

さて。前回のヴァレンティン考で一通りぺでぃあ芸は終わったんですが、一番大事なことを忘れていたな、と思ったので書きます。別に大事ってほどのことでもないんですけど、一応このブログは友人と「今年は観劇記録とかしっかりつけて、頭が(これ以上)退化しないようにがんばろぉ★」をコンセプトにスタートしているので、やっぱり舞台そのものについても書いておかな、と思ったので。ファウストの話です。

 


まずわたしは舞台ファウストにとても感謝しています。

基本的に怠け者かつ天邪鬼で、よっぽどの必要が生じない限り古典や名作を読まない人間なので、かわいくんがファウストにキャスティングされなければわたしはファウストという作品に一生触れることのないまま人生を終えていたと思います。

別にそれはそれで人生に何の支障もないとは思うけど、でもファウストはとても面白いので読んで得したな~~!……という点で、舞台ファウストには本当に感謝している、ファウストという作品に出逢わせてくれたのは、あなたなのだから……!(cv MITA)

 

そして初演に関しては日本語の乱れや演出のトンチンカンさはあるものの、ストーリーの流れ自体は嫌いじゃありませんでした。わたしが脳内で補完した要素とごっちゃになってることは否めないんですけど、少なくとも補完のために必要なヒントはちゃんと舞台の中にあったと思います。削っているところはあって「なんでそこ削るんだよ?!」っていうところはあったものの、それは制作の回答かなと思っていました。だからまぁ、それはそれでいいかなぁと思っていたんですけど。

でも再演の場合はさぁ!?物語の重要なファクターとかキーセンテンスを削ってるでしょう!?だから話がちゃんと繋がらないわけだよ!!

もしかして初演の脚本を見たうえで、自分なりのファウストを書きたいと思ったのかもしれない。ファウストを再構築するにあたって、原作におけるヴァレンティンとマルガレーテの関係から膨らませて兄妹という関係を通して家族愛、そしてそれを超えて人間愛を描きたい、神の掌の輪廻とか、天使悪魔魔女魔法使いっていう超人的な設定をふんだんに取り入れることで逆説的に人間賛歌になるようにするのはどうだろう、そのために神様を出してきて……とかなんか色々考えたかもしれない。何となく思いつくだけでも色々と出てくるので、やりたいことはたくさんあったのかもしれない、とは思います。多分ゲーテファウストも読んでいるんでしょう。千秋楽でまさか三田さんが「お前たち人間が罪とか闇とか~」の台詞をすっ飛ばすとは思わなかったけど、アレを台本に組み込んでいることはそういうことだと思います。だったら最後までちゃんとやれや!!!
あちこちに散らばっている、その意気込みの残骸みたいなものを拾い上げて鑑識みたいなことをやる奇特な人なんてそういないよ。自分でも自分がちょっと気持ち悪いよ。でもそんな自分が好きなんだ!*2
そんな自分は好きだけど!でもそんなことをさせる舞台は舞台として完成してないし、「なかなか深い。考えさせられるな……」と腕組みしながら思索の森へ導くような、そういう思わせぶりな作品にしたいんだったらあんなに説明台詞を入れちゃダメでしょ。

それって要するに、書き手が観客をその程度と思っているというか、ここまで言わなきゃわからないでしょっていう見下しだし、それを説明台詞にならないように気を使って展開を考えるとかそういう手間を放棄しているでしょ。それにテーマに関わる重要なファクターを台本から削ってもいいという判断は、どうせそれがあっても伝わらないしわかってもらえないんだから削ってもいいと思っているか、このテーマを描くには自分には技量も情熱も不足していたのだもうムリ……という諦めなのか、もしかしたらそんな不完全な状態でも出さなきゃいけないって言う極限状態だったのかもしれないけど、それを与えられるほうはたまったもんじゃないでしょ。演者もスタッフも観客も。何よりそんな不完全な状態で生まれさせられた、舞台ファウストという作品が可哀想すぎるでしょ。本当はもっとちゃんと、真っ当に生まれて正面から鑑賞されて、それでさまざまなリアクションが来るべき舞台だよ。
手塚三部作も映画ファウストはもちろん、まんがで読破ファウストだって、賛否はあってもちゃんと作り上げて作品として形になってるじゃん。(なんかまんがで読破のことすごいネタにしてるけどわたしはアレ嫌いじゃないよ!)

 

ファウスト (まんがで読破)

ファウスト (まんがで読破)

 

そこまでちゃんともっていかなきゃ、受け止めようがないでしょう。そりゃ役者の努力であるとか役作りへの真摯さであるとか、演技力であるとかを見てそれを受け取るしかないよ。スタッフの頑張りを評価するとか*3それはそれでもちろん舞台の楽しみ方のひとつではあるだろうけど、それしかないって、ファウストという古典の名作を題材に使ってそれってどうなの。『稀代の文豪』ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、『漫画の神様』手塚治虫のビッグネームに泥を塗る恥ずべき行為だと思わないの。わたしはすごく嫌だと思ったよ。あなたたちが好きにさせてくれたファウストっていう作品は、そんな軽々しいものじゃないとわたしは思ってるよ。ていうか多分、大体の人が『ファウスト』ってそんな軽いもんじゃないと思ってるだろうよ!?!?

 

 

 

 

……落ち着いて、ゲーテを読もう。*4

 

 

 

 

ゲーテファウストのプロローグは「捧げる言葉」から始まり「舞台での前戯」という、劇団の座長・詩人・道化がこれから作ろうとする舞台についてそれぞれ意見を戦わせる場面に続きます。まず座長が劇を成功させるために客を満足させたいって言って、そのためにはどうすべきか?と二人に意見をうかがうと、詩人は「本当に素晴らしいものを作るのに客を意識していては駄目だ」と言い、一方の道化は「客を意識しないでどうするんだ」と反論します。

 

「お願いですから、あの鵺のような大衆のことは言わないでください。あれに顔を向けると、詩のよろこびは逃げてしまうのです―(略)―真実なものは後世になってもほろびることはありません」(中公文庫第一部p14)

 

「いや、後世なんて言い草は願い下げにしていただきたいものですな。このわたしが後世なんてことをかまっていた日には、誰が現世の方々のご機嫌を取り結びますか。ところで現世の方々は、ご機嫌をとってもらいたがっている、ご機嫌をとってあげねばならぬ」(中公文庫第一部p15)

 

これに対し座長は、客には色々いて全員を完全に、本当に満足させるのは不可能だと語り、そのうえで、幅広く多くの人をいかに効率的に喜ばせるかを追求すべきだと主張します。

 

「大勢の人間は、事件の嵩でこなすしかない、そうすれば銘々が何かしらを捜し出せるんだから。つまり数多く出してやれば多くの人間がなにかをもらえるわけで、誰しも満足して小屋から帰ってゆける寸法です」(岩波文庫第一部p14)

 

この三人の主張はどれも納得できるところがあり、一概に誰が間違っていて誰が正しいというものではないと思います。

わたしは作品を作る側ではなくあくまで一観客としての視点でものを言いますが、自分のやりたいことだけを書いてそれを最高だと信じることは観客を置いてけぼりにしがちだし、商業演劇としては致命的であるかもしれません。「詩人の高みで夢見ていて何になるね」(集英社文庫第一部p15)みたいなことを言われてもしょうがない。けど一方でそれだけの想いを持って作られた作品にはそれだけの力があるし、好き嫌いが分かれるものに仕上がってもそれはそれでよいのだと言い切れるのであれば、自分の信念を貫き通せばいい。ついていく人はついていくのだと、そういう考えもわかります。

チケットを買ってくれる観客を満足させるために、観客が望むであろうものを提供する、という思いは勿論大切です。日替わりの小ネタであるとか、ちょっとしたアドリブであるとか、当日来てくれた観客を満足させるために目の前の客が望むことをするというサービス精神は一観客としてありがたいなと思いますし、欲しいと思う物語を与えられ、それを消費できるというのは快いはずです。でもそれは、想像以上の喜びをなかなかに得られないものだと思います。自分が欲しいと思うものは、結局自分が想像できるレベルの快楽しか与えてくれないとわたしは思うので、そうした悦びは即時的で、後になかなか残らないのではないのではないかと、わたしは考えてしまいます。それはそれで、間違ってはいないけど。*5
客を置いてけぼりにしすぎてもいけないし、かといって迎合しすぎて作品の完成度を落とすこともいけないし、そのバランスを取りながら一つの作品を仕上げていく。それがどんなに骨の折れる作業か、作家でないわたしには理解の及ばないところではあります。三人の話し合いは結論が出ぬまま、「とりあえず書こう!」と座長が宣言して終わります。そしてファウスト本編へと続いていくのです。


何かを作り出すひとは、常にこうした相反する理念で葛藤するのでしょう。そしてその葛藤の中で、いま作り出せる最高の解答を提示し、観客はそれを受け取る。

観客は詩人のいう「最高のもの」を必ずしもよしとしないかもしれないし、理解することはないかもしれない。道化の言うように即時的な笑いや涙をちりばめたほうが喜ぶかもしれない。でもそれは、座長の願う「新鮮味があり、面白く、しかも考えさせられるような作品」になり得るんでしょうか。想いのない作品に、観客は何を感じるのでしょうか。
舞台ファウストにおいて足りていなかったのは詩人の心だとわたしは思います。観客を喜ばそうとして五河の絡みを増やしてみるとか、オークラン大臣やアマルのギャグを盛ってみるとか、そういう小手先で観客の満足を得ようとしてもそれだけでは駄目(そもそもギャグが面白くないとかそういう話はさておいて)で、場面の最後に座長が詩人を呼んだように、作品には詩――想いがなければいけないのです。そしてその想いを込めた作品を納得いくまで向き合い仕上げるという執念と努力が。

 

「あんたが詩人と名のる以上は、詩に向かって号令をかけたまえ」(中公文庫第一部p23)

 

 

わたしがオフィストの解釈に用いたオイフォーリンも詩や芸術の象徴として読み取られることがとても多い、というかそれがメジャーなキャラクターですけど、オイフォーリンの荒々しい気性、妥協できない心、何ものに止められてもたとえその先に悲劇が待ち受けていると知っていても飛ぶことを止められない……そういう精神が少しでもあったならあんな、妥協と諦念に満ちた作品で満足ができるはずはないのです。

なによりこの話は『ファウスト』なんでしょ?たとえ誰がどんなに否定しても己の欲望に忠実に歩みを止めない、生き続けるという努力でもって神から救済されるのがファウスト博士だし、舞台ファウストのハインリヒ・ファウストだって最後まで諦めないで、だから死の直前に「満足のいく人生だった」って、「素晴らしい人生だった」って言えるんでしょう。……そういう物語でしょ、ファウストって!!!!!なのに、なに諦めてくれてんの!?!?!?

ほんとにほんとに、納得できない満足できない。

 

 

 


最後に言いますけどわたしは『ファウスト』という物語が大好きだし、それを河合郁人が演じきったことをすごく誇りに思います。かわいくんは生涯ファウストを背負ってほしいし、その重みに負けない人だと信じています。その姿はきっと詩人の言葉に負けないほどに美しいのでしょう。

だから、ただただ、わたしの好きなものをぞんざいに扱わないでほしいんです。ただの観客であるヲタクが我が侭言いますけど、色々なしがらみがあって書きたいものが書き切れないにしても、その枠組みのなかで精一杯やったという姿勢を見せてほしい、諦めなんて見えないようにしてほしい。物語で満足させられないからキャストの絡みやギャグシーンを増やしてみたり、そういう小手先のごまかしでうやむやにしようとしないで、ちゃんとファウストを生かしてほしい。ハインリヒ・ファウストの物語から逃げないで、向き合ってほしい。
もし再再演があるのならそれだけは絶対に、強くお願いしたいと思います。いいな、絶対だぞ!!

 

ファウスト (朝日文庫)

ファウスト (朝日文庫)

 

 

 

 

 

以上!終わり!!はい、八月になったからもう今後はサマパラとえび座の話します!!あとアドルフの話は落ち着いてゆっくりしたら!

*1:平日公演の後方座席を少しお安めで売ってくれるチケット。ありがたい。

*2:M-12003 アンタッチャブル2回戦

*3:三田さんが台詞を飛ばしたとき音響さんがんばったよね。

*4:※ちなみにファウスト以外は詩集一冊しか持っていない。

*5:ただこの場面に出てくる道化はその場しのぎのギャグを言うとかそういうタイプではなく、詩人のように耽美主義者かつ芸術至上主義者ではなくあくまでリアリストであり崇高な思想よりも如何にいま観客を楽しませるかということを追求する娯楽主義者である。こちらはこちらでプロ。